(10)家族

楽しみは戦地に届く写真

 六十五連隊の歩兵砲中隊の元上等兵(82歳・二本松市在住)に召集令状が届いたのは、1937年9月初めだった。当時27歳で、農家の長男。5年前に結婚した3歳下の妻との間に、4歳、3カ月の男の子をもうけていた。

 六十五連隊が所属した十三師団の兵たちのほとんどが、20歳の徴兵から現役(2年)、予備校(5年4カ月)を終えての後備役を集めた特設師団だったため、年齢層が高かった(南京大虐殺の真相を明らかにする全国連絡会編『南京大虐殺』の藤原彰氏の発言部分から)

 慌ただしく出発の準備をし、同月9日、二本松市の家を出た。玄関で妻が子供たちと見送ってくれた。「生きて帰ってくるから」と言ってみたものの、もしかするともう会えないと考えた。幼い子供たちを残して戦地に赴くのはつらかった。しかし、そんな素振りは見せなかった。「お国のためだ」と思っていたからだ。

 集落や親類の人々約5000人とともに徒歩で二本松駅へ。駅前では見送りの人々に担ぎ上げられ周囲を一周した。軍歌を歌い、万歳の声に送られ、六十五連隊のある会津若松に向かった。

 神戸港からの船で上海に上陸したのは、10月10日だった。ここで、郡山出身で仲間の上等兵が軍刀で15歳くらいの少年兵の首を切ったのを見た。初めて見た首切り。気持ちが悪かった。上海戦では無謀な突撃を繰り返す日本軍を見て、「兵を大切にしていない」と思った。クリーク(水路)に日本兵の死体が浮いていた。「おれもこうして死ぬのか」。死を意識した。

 楽しみは休息中に見る、家から送られてきた家族の写真だった。「生きて帰らなければ」と思った。他の兵と写真を見せ合ったり、古里の話をしたりした。いつ帰れるのか分からない。早く戦争を終え、日本に帰りたいとの気持ちが募った。

 しかし、1937年12月17日の南京虐殺の時は、銃剣を振りかざして死体の山を歩き、生存の捕虜を突き殺した。「中国人にも家族がいてかわいそうだと思ったが、気も立っており、命令だからどうしようもなかった」

 翌年秋の大別山の戦いでは、相馬出身の仲間の兵が迫撃砲の破片で頭をやられて死んだ。招集されて会津若松の連隊にいた時、その兵の妻が、白い帽子をかぶった幼子を背負って面会にきていたのを思い出した。

 「仲間が死に、自分もいつやられるか分からない。そんな中で中国人への敵対心が募っていった」と振り返る。「日中戦争の前から軍隊などで銃剣の突き方などを学び、人を殺す教育を受けた。当時、中国人をバカにする風潮もあった。だから中国人を憎いとさえ思った」。普通の人間が、こうして変わっていった。

 とはいえ、「お国のため」というには代償が大きすぎた。味方の兵が死に、中国人の殺害を見るうちに、何のために戦争をやっているのか疑問を抱くようになった。仲間同士では話し合ったが、そんなことが上官にばれると処罰を受ける危険があった。

 今、アルバムにセピア色にあせた1枚の写真が残っている。両親と妻、子供、妹たちが写ったあの時の家族写真。中国で”狂気”と化した自分の青春とはほど遠い和やかな、どこにでもいる家族の光景だ。この年になっても手にするたびに戦争の悪夢がよみがえり、ざんげの気持ちが胸をよぎる。

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