(11)戦後

元大隊長が訪れ「内緒に」

 六十五連隊の田山芳雄・元第一大隊長(故人)が、かつての仲間の兵を訪ね歩いたのは、敗戦後間もなくのことだった。訪問を受けた第一大隊の元上等兵(81歳・会津地方在住)は、田山氏から「南京での出来事を内証にしてほしい」と頼まれた。「出来事」とは、1937年12月16日、17日に揚子江近くで中国人捕虜を大勢虐殺したことだ。

 折しも、極東国際軍軍裁判(東京裁判)が行われ、戦犯が裁かれていた。元上等兵は「朝香宮が上海派遣軍司令官だったので、そこまで戦犯の累を及ぼさないようにとの配慮だったのではないか」と、元第一大隊長の要望の真意を推測する。

 1946年5月3日から始まった東京裁判は、平和破壊罪、戦争犯罪、人道違反罪など各種の犯罪行為の共同計画あるいは陰謀に参画したりこれを実行した者を裁くのが目的だった。A級戦犯では、中支那方面軍司令官で南京戦などを指揮した松井石根大将ら7人が絞首刑、2人が有期懲役、16人が無期懲役を宣告された。

 第一大隊第一機関銃中隊の元一等兵(86歳・会津地方在住)は、12月17日の虐殺現場で、実際に重機関銃を用いて捕虜を射殺した1人だ。上官の中隊長はその東京裁判で終身刑になった。それだけに、虐殺にかかわった者は全員処罰を受けると恐れた。妻にも万一の可能性があることを伝えておいた。

 「当時はいつ罪を着せられ連行されるかと、毎日心配でならなかった。今思うと、中国人を撃つべきではなかった。悪いことをした」。はきはきとした口調に、心底から反省していることがうかがえた。

 「(戦争に)本気になるだけばからしかった」と振り返るのは、南京での12月17日の大虐殺に加わった第三大隊の元下士官(88歳・安達郡在住)である。

 古里で農業をする傍ら、戦中から戦後にかけて村の在郷軍人会分会長や大政翼賛会の支部役員、消防団分団長、青年学校長などを務めてきた。ところが、戦後間もなく村を経由して「あなたは公職に就くことができない」という趣旨び指令が届き、これらの職を追われた。村の知り合いからは冗談半分で「戦犯だ」と言われた。気持ちのいいものではなかった。

 戦後初の総選挙を控え、中央政界レベルでの旧支配層抑止を目的に、GHQ(連合国軍総司令部)は1946年1月、第1次公職追放を行った。翌年1月には追放範囲を地方の公職や言論界に拡大、大政翼賛会の町村部長や経済団体などに及んだ。戦時中の職業や地位、関係した団体によって機械的に行われたため、軍国主義者でない人も追放された。該当者は20万人を超えた。

 「時代の要請に応じて、その時は戦争に勝つため本気になったんだが、(その結果公職追放され)何もするもんでないなと思った。気ままに農業をしているのが一番だ」。自宅の居間でたばこを吸いながら、その元下士官はゆっくりと話した。

 第一大隊の元少尉(82歳・福島市在住)は言い切った。「神風、万世一系の天皇、韓国神社……。盲信的教育の力がいかに大きかったことか。中国を荒らして回り、申し訳ないですよ。戦後中国には一度も行ってない。元兵士の私が行ったら、蹂躙された側はどんな気がするか。我々がその立場ならどう思うかと考えると、気が重い」

 日本軍のかつての行為を振り返り、中国人の心中を察し、自問自答する。すべての責任を「戦争」に押し付けるのではなく、自分自身が加害者だったことを正面から認め、いまだにもがき続ける元兵士たちの姿がそこにあった。

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