(4)揚子江

川面に漂う遺体と死臭

 日本軍が中国・南京で入城式をした1937年12月17日の夕方、揚子江沿いの河原で繰り広げられた1万人を超える中国人捕虜虐殺。その現場にいた兵たちは重機関銃の一斉掃射の後、それぞれ銃剣を持ち、生存者を見つけて刺し殺す作業を繰り返した。

 実際に機関銃で撃った第一大隊第一機関銃中隊の一等兵(86歳・会津地方在住)によると、三方向から取り囲まれて撃たれた捕虜たちはに逃げ場を失い、弾を避けようとしてか、広場の真ん中辺りにかたまって倒れた。将校は軍刀で、歩兵は銃剣で、生きている捕虜を見つけては切ったり刺したりした。そのうち、わらが持ち出され、死体の上にかぶせて火が付けられた。小さな炎が上がった。

 第一大隊の二等兵(85歳・石川郡在住)は、倒れた捕虜を焼くということで、午後11時ごろ、兵たちが油をかけて燃やそうとしたのを見たが、くすぶっただけで燃え上がらなかったように記憶している。すべての死体に燃料をかけたというわけではなさそうだ。

 「死体の上を歩くと血なまぐさかった」と話すのは歩兵砲中隊の元上等兵(82歳・二本松市在住)だ。

 死体の山に分け入り生存者探しをする中で、捕虜の抵抗やそれに伴う混乱が起こった。第一大隊の上等兵(81歳・耶麻郡在住)は、生き残った捕虜が1人、棒きれで日本兵に向かっていくのを見た。その結末は見ていないが、多分、銃剣で殺されたと思っている。

 先の第一大隊の二等兵によると、現場では日本兵が入りまじっていたため、「機関銃で撃つのは危ないから銃剣で刺せ」との上からの指示を聞いていた。にもかかわらず、同じ隊の仲間(須賀川出身)と立ち話をしていたら突然機関銃が火を噴いた。「危ない」とその場に伏せたが、仲間は銃弾を受け、間もなく死んだ。「宗形少尉が撃たれた」との声で、50メートルほど離れたその場所に駆けつけたが、少尉はすでに運び去られた後だった。翌日、死体を見て死んだことを知った。背中に弾の跡があったという。

 「いずれも捕虜に向けて撃った弾が、間違って当たったのではないか」と、この元二等兵は推測する。

 大規模な虐殺だったため同夜は生存者探しとその殺害の作業が続き、死体処理は18日に持ち越された。第一大隊の少尉(現82二歳・福島市在住)はその日、現場で兵に対して死体処理の指揮をした。死体が重なり合って1メートルほどの高さになっている所があった。真っ黒でくすぶっている死体も。殺したはずの捕虜がいきなり起きあがるのを2回見た。びっくりしたが、いずれも逃げるではなく、ただ突っ立っていただけ。すぐに兵の銃剣で突き殺された。においがひどく、手ぬぐいでマスクをして死体を揚子江に投げ入れている兵もいた。

 この日、第二大隊の下士官(83歳・福島市在住)も昼間、死体処理にかかわった。多い所では8人も折り重なった死体の山の下の方では、虫の息ながら生きている捕虜もいた。この下士官自身、そんな捕虜を銃剣で何人か刺し殺した。中には日本語で「岡山県にいたことがある」と声を振り絞って助けを求める捕虜もいたという。

 揚子江に死体を流しても、流れが緩やかなためか岸に戻ってきたりして、辺り一面に死体が浮いている状態だった。処理は19日まで行われた。

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