(5)上海戦

無惨な戦闘、突撃成功せず

 日中戦争の前哨戦となった上海の攻防戦は、1937年8月から3カ月にわたって繰り広げられた。六十五連隊は激戦のさなかの10月、上海に上陸してすぐに前線に投入された。

 第一大隊の少尉(82歳・福島市在住)は同月3日、上海に上陸後、1泊。翌日、徒歩で郊外まで行くと、そこが戦場だった。中軍はクリーク(運河)を隔てて陣地を設置。銃の照準を合わせて待ち構えていた。およそ100メートルほどの間隔を空けて対峙する。互いに相手兵の動きが手に取るように分かるため、昼間は下手に動けない。それでも、「突撃」の号令を受けて飛び出した兵が銃弾を浴びて死亡するケースがかなりあったという。

 『第四中隊史』(歩六五第四中隊史編集委員会)にも「突撃を敢行するも敵の猛射撃に成功せず、苛烈無残な戦場となる」「降雨のため、泥だらけの戦争であった。壕内は股までぬかる泥濘であった」「後方から持参補給もならず、にぎり飯を布に包んで投げ継ぎの補給で、水浸しになったり、高温と時間の経過でかろうじて前線に届くときはスレきれていた」などとあり、激しく悲惨な戦いだった様子が分かる。

 中国兵は夜襲をかけた。手榴弾を塹壕に投げ入れる戦法だった。遠くまで投げられるよう手榴弾に木製の取っ手が付いていた。とはいってもある程度まで近寄らないと入らない。そこで夜中に這って、出来るだけ近づいて投げ込もうとする。入ってきた手榴弾を、時には投げ返す兵もいたが、ある時、壕の真ん中に手榴弾が投げ込まれた。兵はあわてて両側に分かれて身を伏せたがさく裂、けが人が出たことも。

 警戒のため少尉らは夜眠れなかった。塹壕は横長で兵が10人ほど入っていた。座ってちょうど頭が見えないくらいの深さだ。足を伸ばすのがやっとという幅だった。真っ暗な中、目を凝らして警戒していると、人の気配がするのが分かった。

 「それ撃て」。少尉の号令で、待機していた兵が小銃を発射して中国兵を射殺した。緊張して一睡も出来なかった。昼間は互いに動けないため、見張りを置いて仮眠を取った。

 少尉らは、昼間に空いている壕の目星をつけ、夜になるとそこを目指してほふく前進。銃弾がピュッピュッと、小鳥のさえずりに似た音をたてて体をかすめた。壕に到着しなかった兵もいた。

 「兵三十数人のうち十数人を上海戦で失った。顔を覚える間もなく、死んでしまった。中国軍が退却しなかったら、日本軍の損害はさらに大きくなっただろう」。元少尉は福島市内の自宅でつぶやいた。

 上海戦で六十五連隊の戦死者は620人(連隊戦友名簿より)に上った。

 歩兵砲中隊の元上等兵(82歳・福島市在住)は「味方が死んだり、けがしたりすると中国人への敵対心が募った」と憎悪心が生まれた過程を話す。

 ある朝、気がつくと中国兵がだれ1人いなくなっていた。突然撤退したらしい。「追撃戦に移るぞ」。六十五連隊の南京に向けた侵攻が始まった。

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