(7)殺害

日本兵の鬱憤、民衆に

 南京までの行軍中に、水牛を連れた50歳くらいの中国人に出会った。六十五連隊の兵が「水牛を持ってこい」と命令したところ、この中国人は水牛を逃がしてしまった。怒った兵はただちに中国人の心臓めがけてけん銃を発射、男は仰向けに倒れ、息絶えた。

 「六尺もあるようなおやじだった。牛を持っていかれたくなかったんだろう。つらいおやじだったな」。その場を目撃した歩兵砲中隊の元上等兵(82歳・二本松市在住)は、こう話しながら涙を浮かべた。

 吉田祐『天皇の軍隊と南京事件』によると、上海攻略後、日本軍が南京に向かう追撃戦の全過程は、掠奪や放火、女性への暴行、捕虜惨殺、一般民衆殺戮などの残虐行為がより大規模な形で拡大される過程であり、南京事件の直接の前史をなす過程でもあったと指摘。上海戦で疲れ切った上海派遣軍を、十分な休息や準備なしに南京に進撃させたことで、日本兵たちの間の自爆自棄的な空気を一気に加速させ、これが罪のない中国民衆や捕虜に向かって爆発した、とも分析している。

 山砲兵の元上等兵(80歳・石川郡在住)によると、南京入城式の前日(1937年12月16日)、草むらで兵が30歳ぐらいの中国人捕虜を1人座らせ、片手に持った軍刀で首を切ったのを見た。血が勢いよく噴きだし、頭が2メートルほど飛び上がった。胴体も一瞬立ち上がったが、すぐに前に倒れた。

 南京戦で中国の防衛軍は壊滅的な打撃を受けた。しかし、南京陥落で戦争は終わらなかった。

 南京以降の行軍途中、小休止した時のことだ。この元上等兵は、歩いていた中国人男女10人が突然捕らえられるのを見た。20歳から50歳代で、中国服を着ており民間人のようだった。「助けてほしい」と手を合わせて拝む中国人に、兵は「裸になれ」と中国語で命令した。中国人はこれに応じて服を脱いだ。兵たちは「この女は陰毛がある」などと言ってしばらくの間、見て喜んでいたという。

 その中国人たちはなおも命ごいをし続けた。しかし、2〜3人の兵がこの10人を水田の中で縦に一列に並べ、一番手前の中国人の背中から小銃で撃った。全員が将棋倒しのような形でうつぶせに倒れた。兵は、銃弾が何人まで貫通したかを一人ひとり調べた。7人目からは弾が当たっていなかった。残りの4人は銃声に驚いて倒れたようだった。上等兵はそこのところで小休止が終わり、その場を出発した。が、4人は銃剣で刺し殺されたと後で聞いた。

 「何人もの兵が見ていたが、制止する者はいなかった。面白半分でやっているとしか思えなかった」と元上等兵は証言した。

 1907年、ハーグ平和会議で作られ、日本は1912年に批准した戦時国際法の条約付属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」23条には、禁止事項として「兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト」とある。

 六十五連隊第三大隊の下士官(78歳・西白河郡在住)は、がけに向けて中国人捕虜を10ほど間隔を空けて並べた際、他の日本兵と共に軍刀を手に、1人の捕虜のわきに立った。捕虜1人に対して兵1人が付いた。捕虜の手などは縛っていないが、だれ一人として抵抗しなかった。周囲では多くの兵が見ていた。だれかの声を合図に、一斉に後から捕虜の首を切ると、頭ががけを転がり落ちていった。どこまで下に落ちたかを競い合った。

 「捕虜を1日連れて歩くと、友軍の兵力や装備などが把握されてしまう。夜逃げられてこちらの戦力を中国軍に知られるとまずいし、捕虜収容所もないので、夕方になると処理(殺害)した。毎日のことだったので、いちいちどこだったかは思い出せないが……。刀のみね(背の部分)で後頭部をたたき、首を前に倒したところを切った。大根のように切れた」とこの元下士官。身ぶり手ぶりが具体的だった。

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